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読みもの⑦「誰でもなれる専門家」

全理学療法士向け
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今は昔

私がこの世界に足を踏み入れた20数年前、理学療法士(PT)という資格は今とは比較にならないほどの「重み」を持っていた。

養成校の門は狭く、偏差値は有名私立大学に次ぐ勢いで高騰していた時代だ。合格通知を手にした時の、あの身の引き締まるような高揚感を今でも鮮明に覚えている。

当時は病院という巨大なピラミッドの中で、我々は「リハビリテーションの専門家」として明確な一角を占めていた。

医師からは一目置かれ、看護師からは頼りにされ、患者からは「先生」と敬意を込めて呼ばれたものだ。給与袋の厚みも、その専門性に見合うだけの十分な「敬意」が形になったものだった。

それがどうだ。

今や街を歩けば、コンビニの数ほどとは言わないまでも雨後の筍のように乱立した専門学校や大学の看板が目に付く。

かつての「選ばれし者」のライセンスは、定員割れを回避するために門戸を広げすぎた結果、皮肉にも「誰でもなれる資格」という不名誉なレッテルを貼られることになった。

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権威の失脚

現場の空気はもっとシビアだ。

かつての同志のような連帯感は薄れ、他職種からの視線には「冷ややかさ」が混じるようになった。

「理学療法なんて誰がやっても同じでしょう」――口に出さずともそんな声が廊下の端々から聞こえてくる。

医師の指示は絶対的な主従関係へと変質し、多忙な看護師からは「リハビリの時間は処置の邪魔」と言わんばかりの扱いを受けることもある。

かつて我々が築き上げてきた専門性の城壁は内側から崩れ、外からは軽んじられているのが現状だ。

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質の低下

さらに深刻なのは身内であるはずのセラピストたちの「倫理観の空洞化」だ。

かつての我々は、一人の患者を歩かせるために夜通し文献を漁り、先輩と議論を戦わせたものだ。

そこには「職人」としての意地があった。

しかし、今のリハビリ室を支配しているのは職人の「魂」ではなく、冷徹な「単位」という名の数字だ。

「あと○単位でノルマ達成だ。あーだるい。」
「○○さん、しんどいからもっと楽な患者で単位稼げないかな。」

そんな会話が、若手たちの間で平然と交わされる。

臨床の深淵を覗こうとする情熱よりも、いかに効率よく20分をやり過ごすかという事務的な手際良さばかりが評価される。

知識のアップデートを怠り20年前の骨董品のような手技を漫然と繰り返すベテランと、スマートフォンの画面越しにしか解剖学を見ない若手。その間に横たわるのは、かつてこの仕事が持っていたはずの「重み」の消失である。

地位が下がれば集まる人間の質も変わる。

かつては情熱と知的好奇心に溢れた若者が門を叩いたが、今は「なんとなく資格があれば食いっぱぐれないだろう」という消極的な理由で入学してくる学生が少なくない。

教える側も、国家試験の合格率さえ維持できればその中身が空っぽであっても構わないという、ある種の「教育の偽装」に加担している。

プライドを支えるもの

実を言えば、私もそんなに高潔な人間ではない。

時折ふと思うのだ。もしあの時別の道を選んでいたら、今頃はもう少しマシな車に乗ってもう少しスマートな生活を送っていたのではないか、と。

病院の白い壁に囲まれ人の老いや痛みと向き合い続ける日々に、時折ふと強烈な倦怠感が襲うことがある。

そんな折、股関節の手術後、痛みに怯えて寝たきりに近かった高齢の男性を担当した。

初期のリハビリは、地味で忍耐を要する作業の連続だ。術後の炎症に怯える股関節を慎重に動かし、関節可動域を数ミリ単位で広げていく。弱り切った筋力を呼び戻すため、私は彼の患部に手を添え筋肉が収縮する微かな振動を指先で探り当てた。

「先生、本当に動くようになるのかね……」

天井を見つめたまま漏れる弱気な言葉。

数値的な変化はまだ微々たるものだ。だが、私はいつか来る離床の瞬間に備えて、静かに牙を研ぐように準備を続けた。

そして、ついにその時が来た。

「……よし。ゆっくり、私に体を預けてください。大丈夫、支えていますから」

私の腕が彼の背中と膝裏をしっかりと捉える。寝たきりの生活で重力を忘れた彼の体は、驚くほど重く、そして脆そうに感じられた。私の肩に回された彼の手が恐怖でぎゅっと白くなるほど強く握り込まれる。

「せーの……はい」

ゆっくりと、上体を起こす。重力に抗い体幹が垂直へと立ち上がっていく。ベッドの端に彼の足が下ろされ、私の支えを受けながら、彼は初めて自力で座り込んだ。

その瞬間、彼の顔色が一変した。

「……あ、座れた」

昨日まで白一色の天井しか映していなかった彼の瞳に、窓の外の景色と、リハビリ室を歩く人々の姿が飛び込んできた。視界が一気に90度変わったのだ。

「先生……外が見える。人が、歩いてるよ……」

震える声で呟く彼の横顔を見ながら、私の腕にもじわりと温かい感覚が伝わってきた。この少しの変化、この数秒の動作のために、私たちはあの日々を積み重ねてきたのだ。

数日後、今度は平行棒の間で私の支えを借りながら震える足で立ち上がった。

「立ってる…先生、俺、立ってるよ!」

その声は震えていた。

「すごいじゃないですか!じゃあ、次はあそこの窓まで歩いてみましょう」

そう提案すると、彼は子供のような純粋な好奇心に満ちた目で窓の外を見やった。

外に出れば、また「理学療法士なんて」という視線に晒されるのだろう。

だがこのリハビリ室という小さな宇宙の中で、機能回復が動作向上へと劇的に昇華する瞬間、患者が自身の身体の可能性に再び目覚め歓喜する瞬間、その劇的なドラマに最も近い場所に伴走できる、それこそが、本来の理学療法が持つ泥臭くも圧倒的な魅力だったはずだ。

葛藤が消えたわけではない。明日もまた自分の無力さに打ちひしがれるかもしれない。けれど、あの歩行を支えた手のひらの感覚が今の私を繋ぎ止めている。

鏡に映る自分の顔はまだ少し疲れているけれど、瞳には少しだけ熱が戻っていた。

誰かの明日を作るために、まずは私の今日をもう少しだけ踏ん張ってみようと思った。

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