なめろうです。
前回に引き続き“訪問リハの終了”についての私見を書いていきます。
前回の記事では、対象者(家族含め)が望み、仕事として成立しているのであれば、終了しなくても良いの内、終了しなくても良いの部分の理由を書きました。
終了しなくてもというニュアンスなので、終了すること=絶対悪とも考えておりません。
今回は、訪問リハを終了しなくて良い派の私が許容できる終了について、対象者(家族含め)が望み、仕事として成立しているのであればの部分に焦点を当てて、説明していきます。
“対象者(家族含め)の望み“について考えてみる
“仕事をする”ということから考えてみる
またまた哲学的な話ですが、“仕事をする”ということから考えていきます。
仕事をする・・・それは
誰かにとって価値のあると思えるものを提供し、その成果に対する報酬をもらうこと
だと私は捉えております。
理学療法士の場合だと
理学療法士の技術を提供することが、誰かにとって価値があると思ってもらい、その成果に対して報酬をもらうこと」
となります。
この“誰かにとって価値があると思ってもらう”ということが、リハビリを受けるかどうかの最も重要な判断基準になると考えています。
言い換えれば、理学療法士目線でリハビリの必要性が高かったとしても、それが誰かにとっての価値があると思わなければ、リハビリを受けないという選択は仕方ないですし、そこにとやかく言う権限は理学療法士にないという考えです。
“誰かにとっての価値”について考えてみる
次に、“誰かにとっての価値”について考えます。
訪問リハビリの価値というは、リハビリを受けること自体の必要性は大なり小なり理解しているけど、何かと天秤をかけた結果、ありorなしと判断をされるものだと考えます。
~リハビリと天秤にかけられる何か~
- お金:別の出費が多く、経済的に支払う余裕がない
- 他サービス:通所リハは訪問リハよりリハビリ自体は短い時間だけど、人の目もあるし、入浴もしてくれるから、通所リハを選ぶ
- 時間:色々忙しくて、訪問リハビリを受ける時間を確保できないから、受けることができない
- サービス提供者:提供者の接遇面が良くないから、受けない。 人が家に来られるストレスがあるから、受けない。
このように、訪問リハビリの価値というのは相対的なものです。
訪問リハビリの必要性の説明をし、相対的に価値があると思ってもらうような工夫(お金、時間が天秤であれば、回数を減らす提案をするなど)をした上で、それでも誰かにとって相対的に価値がないと思われ、リハビリが終了となる。
こういった終了であれば、許容してもいいと考えています。
仕事として成立しているのであればの部分
前に、仕事をすることは最終的に報酬をもらうことと書きました。
いくら誰かにとって価値がある理学療法という技術を提供しても、その結果報酬をもらえないようであれば、同じことをしていてもボランティアになります。
※ボランティア自体を否定するつもりは毛頭ありません。
仕事として活動している以上、提供しても報酬にならないような状況であれば、リハビリの必要性があっても終了することを許容してもいいと考えます。
こういった考え方に対して「お金本位で、利用者本位でない。」なんて意見を言う理学療法士がいるかもしれないですが、そういう方はボランティア理学療法をしていてもその理学療法士が生活できるような道を目指してほしいと思います。
まとめ
前回の記事を含めて、“訪問リハビリの終了”について書きました。
こういった類の話は、正解がないことではありますが、「自分はこういう考えでやっている」という考えを持っていることは、仕事をしていく上で必ず役に立ちます。
ただ、偏った考えや立場上考えなくてもいい範囲までの考え(例えば、国の財政を圧迫するから保険制度を利用することはどうなんだろう→できれば訪問リハビリはしないほうがいいのでは?といった考えなど)を持つことで、かえって仕事に支障をきたすこともあります。
業界全体を同じ考えにすることは難しいとは思いますが、自分自身の考えが偏ったり、おかしなことにならないよう、自分自身の考えを否定的に捉えながら、考えを構築していけるよう今後も励んでいきたいと思っております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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