こんにちは、まめたです。
理学療法士に関わらず、医療や介護の現場で働いていると、患者さんから「ありがとう」と言われる場面に遭遇することがある。今回はその「ありがとう」という言葉が発せられる背景について考えたい。
ある日突然、社会的弱者となる
ある患者さんの一例
ある50代の男性には、妻がおり、子どもは社会人となっており、孫もいる。仕事も順調であり、休日は友人とゴルフに行くなど楽しく過ごされていた。そんな時、脳梗塞を発症し、左上下肢が麻痺し、トイレにも自分1人では行けなくなってしまった。そのため、仕事は退職し、退院後は友人とのゴルフにも行けず自宅で過ごすことが多くなってしまった。自宅ではトイレなどの身の回りのことについても妻に手伝ってもらわなければならない。妻にトイレの介助をしてもらうなどすると、その方は「ありがとう」とよく言うようになった。病前、自信に溢れていた様子は影を潜めた。
『患者さんの一例』から考えること
病気によって、人の人生は180°変わることがある。『患者さんの一例』でもあったように、今までできていたことができなくなるという状況に突然立たされる。それを遂行するためには誰かの助けが必要となる。
誰かに助けてもらわないと人間の生理的欲求の1つでもあるトイレにすら行けない、という心理的状況から発せられる「ありがとう」は素直に受け取ってもいいのか?言わざるを得ない状況なのではないか?そんなことを考えるのである。
「ありがとう」の種類
「ありがとう」には2種類あると思っている。
本心の「ありがとう」
1つ目は、介助者とのパワーバランスがなく、本人が心から感謝して言う「ありがとう」である。
介助者が介助することを苦に思っておらず、それが相手にも伝わっている場合に発せられる「ありがとう」は、本心からくるものであると考える。この場合は、お互いが対等であるため、ネガティブな要素はないと想像する。
戦略的「ありがとう」
2つ目は、介助者とのパワーバランスがあり、本人が介助者のために言う「ありがとう」である。
この場合は、介助者側がパワーバランスはないと思っていても本人がパワーバランスを感じていれば、それは本心からではなく、介助者の機嫌を損ねないよう、今後も良い関係で介助をしてもらうための戦略的「ありがとう」に該当すると考える。
もちろん実際のところは、本心の「ありがとう」と戦略的「ありがとう」の2種類にはっきり分かれることはないと思う。戦略的「ありがとう」の中にも本心の「ありがとう」が2割ぐらいまじっていたりするであろう。
戦略的「ありがとう」が及ぼす影響
社会的弱者になると、往々にして介助者とのパワーバランスが生まれるであろうことが想像される。そうすると、必然的に戦略的「ありがとう」を使う機会が増えると思われる。もしかしたら、この戦略的「ありがとう」を使う度に、意識下か無意識下は人それぞれとして、自分が社会的弱者であるということが形作られているような気がする。そして、意識した時には目の前に社会的弱者であることを突き付けられているのではないだろうか?そうなると自尊心を保つことは容易ではないだろう。
もしそうだとするならば、少なくとも私たちが介助する時には、介助される側がパワーバランスを感じないよう配慮をする必要があるのではないかと考える。
もしかしたら、家族は介助することによる見返りや報酬がないため、パワーバランスが働きやすいかもしれない(もちろん家族が当たり前のように介助をするご家庭もある。いや、その方が多いだろう)。むしろヘルパーさんなど金銭的報酬を伴って介助してもらう方が余計な感情なく対等でいられるかもしれない。
海外では、ADLに多くの時間を要す場合は、それをヘルパーさんなど他の誰かに介助してもらうことで、今までADLに使っていた時間をもっと自分が心から楽しめることに使うことを推奨したりもする。それを聞いた時は、確かに前向きな考え方だと感じた。
まとめ
人は誰でも、ある日突然、社会的弱者になりうる。
そんな社会的弱者の立場に立つと、当たり前かもしれないが人と人が対等であることが大事だとつくづく思う。少なくとも、私たちのようないわゆる社会的弱者と関わる医療・介護従事者たちは、そこにパワーバランスが働きやすいことを自覚しておかなければならないと感じる。
もしかしたら、明日自分が1人では何もできない身体になってしまうかもしれない。そう考えると、少し患者さんの気持ちが想像できる(あくまで「少し」で、本当の辛さは経験しないと分からないだろう)。
皆さんも、患者さんが語る言葉のその奥に耳を傾けてみてはどうだろうか?
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