こんばんは、卵屋です。
はじめに
「症例発表」という言葉をご存知だろうか。
そう、理学療法士なら誰もが一度は経験するイベント。
この症例発表については、あまり良い印象を持たなかったり、苦い思い出となっている読者諸兄の皆さんが多いのではないだろうか。ぶっちゃけ私自身もそういうイメージがあることは否定できない。
それはなぜなのか。
今回はこのことについて整理し、どうすれば嫌いな症例発表じゃなくなるのか考えてみる。
症例発表の目的
そもそも症例発表とは何を目的に行われることなのか、まずはこれについて整理してみる。
症例発表には主に4つの目的がある。
患者さんの情報共有
患者さんのために行う症例発表。
担当者以外は深く知らない患者さんの現状や方針について、主にミーティングなどで紹介しチームで共有することが目的。
これにより担当者以外が介入した際も諸々の状況を把握した状態で関わることが出来る。あるいは担当者の方針に明確な誤りがあった際などに他スタッフが気付き修正することが出来る。あくまでも主な目的は患者さんのため。
発表者の頭の整理
発表者のために実施される症例発表。
発表者自身が文字に書き起こし頭の中を整理するために行う。
医学(自然科学)の知識と臨床推論は別物で、理学療法士は勉強をして色んな知識を得ると同時に、理学療法自体の考え方も学ばなければならない。
頭の中で散らばった情報や知識を組み立ててどういう方針を立てるか考える作業である。
料理人が料理の知識だけ持っていてもおいしい料理が作れないのと同じで、理学療法士も知識を用いて思考を組み立てなければよい関わりにはならない。目の前の患者さんを評価して情報を集める、その情報と知識を用いてどのように「攻めていくか」頭を整理する際に、症例発表という営みは有益なツールとなる。
発表者を評価・教育するため
管理者や教育者のために行われる症例発表。
これが一般的にイメージされる「嫌いな症例発表」にあたるものである。
学生や部下の能力を評価するために症例発表という方法を用いる。
先にも書いたように理学療法士の思考能力は知識だけでは測れない。大事なのは情報と知識を整理して組み立てる能力(メインは論理的思考能力だと思っているが)で、それを確認するために症例発表という方法を用いる。
社会への貢献
社会のために行われる症例発表。
学会等での症例発表がこれにあたる。
稀な病気に対する理学療法の経過、新しい器具を使った症例の発表など、この症例発表を理学療法界全体で共有して医学を進歩させましょうという目的で行われる。
以上、症例発表には大きく4つの目的がある。
では、それらの目的を持った症例発表、一見有益な営みのように感じるがなぜこうも嫌厭されているのか。
次からは嫌われる症例発表の特徴を整理することでその謎に迫っていく。
嫌われる症例発表の特徴
さて、みんなに嫌われがちな症例発表。
ここからはどういう症例発表が嫌われるのか考えてみる。
目的が共有されていない
これが最も多くみられるパターン。
さきほど挙げた4つの目的のどの目的を主に置いているかが明確でない症例発表。
「症例発表は必要な取り組みだ」と、深く考えないままとりあえずやっているパターン。慣例的に「新人は3ヶ月に1回症例発表を行う」「全職員、年に1回症例発表を行う」など職場のルールとして決まっているパターンで多くみられる。
この慣例やルール自体が悪いと言いたい訳ではなく、問題なのはその症例発表を「何の目的でやるか」が示されていないパターン。
例えば、
といったように同じ症例発表でも「主な目的は何か」が提示されていればその目的に沿って実施することが出来る。
「よくわかんないけど、症例発表をしろって言われているのよね」と文句を言う職員がいる場合、目的が共有できていない管理職にも、目的を確認しない職員にも問題がある。
目的が共有できていない症例発表では、聞き手や質問者にも問題が出てくる。
例えば、患者さんの情報共有が主な目的で行われている症例発表なのに、まるで他者を評価しているかのような口ぶりで偉そうに指摘をする理学療法士がいる。今は患者さんの情報共有を目的に実施しているのに、あたかも自分が新人・若手を教育しているかのような勘違い発言を繰り返す。
また、発表者の教育を目的とした症例発表でも、相手を不快に、あるいは委縮させるような態度や口調で質問する場面をよく見かける。「発表者のため」を思った取り組みならば、自分の振る舞いの結果発表者が成長に向かわなければならない。「なにくそ!」と奮起する若手ならばもしかするとそのような態度が望ましいのかもしれないが、99%以上の人間は「うるさい黙っとけカス」としか思わない。こんな症例発表ならもう次からやりたくない…、と症例発表嫌いになることは想像に難くない。
これらは全て目的が共有されていない(聞き手側が目的を理解していないこと)ことが原因。
さらに突っ込むと、目的が明確に示されていてもそれを理解できない理学療法士の幼稚さが背景にあると言える。「患者さんのため」「発表者のため」と明確に目的が示されていても、質問者として「相手を追いやっている自分カッケェー!」と自慰行為を繰り返す理学療法士は全国に5000万人くらいいる。この「病気」はもはや不治の病。もうこれはどうしようもないのかもしれない…。
さてさて、このように症例発表をうまく成立させようと思うと目的の共有が最も大事だと言える。
参加者の「心理的安全性」が担保されていない
「心理的安全性」という言葉をご存じだろうか。
今流行りの言葉で、簡単に言うと「集団内で自分の考えを安心して言える心理状態」のことである。
Googleが「生産性が高いチームは心理的安全性が高い」という研究結果を発表したことから注目され出し、今ではマネジメントや組織論において必須の概念である。
さて、症例発表においても発表者・参加メンバーの心理的安全性が成功のカギを握る。要は、何を言っても、どんな考察を披露しても「心をえぐるような攻撃はされない」という安心感が重要なのである。
ここで勘違いしてはいけないのは、発表や発言内容についての意見や批判はあっても構わない。
みんながどんな意見・推論も受け入れるべきなどという綺麗事を言うつもりはない。
むしろ思考過程や知識、臨床推論について建設的な批判や意見はあった方が健全である。
大事なのは、それらは互いの信頼のもと、かつ発言内容にのみフォーカスを当ててなされるべきという点。
学生時代の仲の良い同級生たちと症例検討会をしているところを想像するとイメージがつきやすいと思うが、自身のことを人として受け入れてくれている間柄の友達に、発表内容について建設的な批判や別の意見が出されても腹が立ったりイライラすることはないのではないだろうか。
ここを誤り、関係性もないまま鋭く突っ込んだり、あるいは関係性があっても発表内容を超えて人格を攻撃したり人を評価するような態度をみせると相手は素直に受け入れられなくなる。
普段あまりしゃべらない先輩に、
と聞かれるのと、仲の良い同僚に、
と言われるのでは、本当に段差の情報を欲しがっているのか、ただただ攻撃するために質問しているだけなのか受け手の取り方が変わる。
基本的に職場での関係性なんてよほどプライベートでも会う人でなければ「ただの職場の人」だ。
何を言われても気にしないレベルの信頼関係なんてあるはずがない。
だとすると、言い方や態度に死ぬほど気を付けなければならない。
あなたを攻撃するつもりはないですよ、バカにしていませんよ、自分が上だなんて思っていませんよ、間違っていても自分も全然間違うので気にしなくて大丈夫ですよ、足もクサいですし屁もこきますよ…、それくらいの姿勢をみせてようやく相手の心理的安全性が担保される。
そこで自覚のないまま相手を「攻撃」してしまい、質疑応答が意地の張り合いになると、余計ギクシャクした関係になるし、「だから症例発表なんて…」と嫌な症例発表の出来上がりという訳だ。
症例発表がうまく成立するためには参加者の「心理的安全性」が重要である。
テーマが設定されていない
実は症例発表は「テーマ」というものを設定した方が良い。
テーマというと少し広いが「どこに焦点をあてて発表しているか」という意味で捉えて欲しい。
例えば、
「歩行時の荷重時痛が軽減せず難渋したケース」と、「古い家屋で環境調整に難渋したケース」という題では、焦点を当てるポイント(階層)が違うことが分かる。
ここを設定しないまま「全体をまんべんなく」となるといくら時間があっても足りやしない。
他者のチェックを受ける目的の発表ではそれを要求されることもあるが、その場合も伝えたいポイントを設定して提示する情報にグラデーションをかけた方が良い。
そして、それらが設定されると参加者たちもなるべくそのテーマに沿った質問や意見をすべきである。
いわゆる「重箱の隅をつつく」質問が多いのはこの点を意識できていない理学療法士が多いからだと感じる。
参加者の知識や論理的思考能力があまりにかけ離れている
これは対策は難しいし、あまりこればかり意識すると症例発表の意義自体が薄れる危険もはらんでいるが、実際問題これはあると思っている。
発表者と参加者の知識や論理的思考能力が一定の範囲内に収まっていないと、発表者が発表した内容が参加者には伝わらないし、参加者も何を意見・質問してよいか分からない。
沈黙が長く続く症例発表会はこの可能性がある。
あるいは積極的に意見するタイプの理学療法士が集まったとしても能力の差が大きいとこれまたうまくいかない。ここで能力の高い理学療法士からの質問や意見を、能力の低い理学療法士がありがたく聞き入れればよいのだが、能力のないやつに限ってプライドだけは高く自分を客観的にみれないから「あいつは能力が低いからよく分からないことを言っている」と逆転現象が起こる。
結果、能力の高いやつも低いやつもただただストレスでしかない無意味な時間が流れることになる。
参加者の能力はある程度統一されている方が症例発表はうまくいく。
時間が確保されていない
人間がストレスを感じる理由の一つに「自分の考えが理解されていないと感じる時」というものがある。
この最も最悪なパターンが「考えが理解されないまま勘違いされて伝わって、その勘違いをもとに評価を受ける」パターンである。
質疑応答の中で、説明したいことがあるけど時間の関係で深くまでは説明出来なかった、するとまわりには浅いところまでしか考えていないように捉えられて、その勘違いされた状況のまま質問や意見が飛ぶことがある。
それらをいちいち訂正したくても時間がかかるから出来ないし、時間のないなか時間をかけて説明していると「あらあらムキになっちゃって」と思われるから「貴重なご意見ありがとうございます」としぶしぶ受け入れる。
こんな光景は症例発表では日常茶飯事だ。これは発表者にとっては紛れもなくストレスになる。そんな症例発表を繰り返していると「だから症例発表なんて…」とどんどん嫌いになっていく。
症例発表では発表者にしっかり自分の考えを説明する時間を与えることが重要である。
うまくいく症例発表とは
さて、嫌われる症例発表の特徴を整理してみた。
では逆にうまくいく症例発表とはどういうものか。
ここまでくれば簡単なことでさっきの逆、
- 症例発表の目的が示されていて
- 参加者の「心理的安全性」が担保されていて
- テーマが設定されていて(かつテーマに沿った質疑応答がなされて)
- 参加メンバーの知識・思考レベルがある程度統一されて
- 発表者がきちんと説明できる時間が確保された
症例発表であるといえる。
うん、そんな症例発表あるかーー!!と思った諸君、そんな症例発表を君たちが作っていってくれ!
確かに職場レベルで考えると全てを揃えることは不可能かもしれない。
だとしてもせめて上の2つ(目的と心理的安全性)は全員が意識しておくれ。
症例発表が嫌われず、有益なツールとして理学療法界に浸透していくためには必須の条件なのである。
まとめ
症例発表がなぜ嫌われるかについてまとめてみた。
結果、症例発表の目的を考えず、勝手に評価したがる勘違い理学療法士が1億人くらいいるからだと分かった。
本来、症例発表は患者さんの情報共有や自身の頭の整理など理学療法界にとっては有益なツール。
皆さんの職場の症例発表が少しでも良い方向へ変わることを期待する。
今回はこの辺で。
ありがとうございました。
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