はじめに
こんばんは、卵屋です。
理学療法士という仕事を始めて10年以上経つ。
理学療法士は世の中にたくさんある職業のうちの一つで、要は「仕事」である。
仕事なんて基本的に嫌なことの連続だ。
朝眠たいなか起きて、電車に揺られながら出勤して、職員や患者さんに気を遣いながら肉体・感情ともに疲れて、夜ダラダラしたい気持ちをおさえて次の日に備えて寝る。
そんな嫌なことの連続を乗り越えて労働した結果、「お金」という対価を得る。
どんなに綺麗な言葉を並べてもその事実は変わらない。
やらなくて済むならやりたくない。
お金が腐る程あってやらなくてもいいなら今すぐ辞める。朝好きな時間に起きて、昼ジムとか行って、映画とか観て、夜飲みに行って、ダラダラして、寝たい。
ただ、当然ながら現実はそれを許してはくれない。お金を稼がなくてはならない。その手段の一つに理学療法士があってその手段を利用させてもらっているに過ぎない。私の理学療法士に対する根元の心構えなんてそんなものである。
が、そんな私が理学療法士という仕事をしていて全て嫌なことだけかと問われると答えはNO。理学療法士をしていて、楽しいと感じる瞬間も確かにある。
中学生みたいに「だりー」「うぜー」だけ言って格好つけるのはおとつい卒業した。楽しいものは楽しいと認める、それが大人だ。そう、私は大人になったのだ。
さて、今回はそんな理学療法士をしていて楽しいと感じる瞬間を書いてみた。
机上の知識が臨床場面でつながったとき
私の実体験で言うと、下記のような経験。
1年目の冬、初めて担当した脳卒中の患者さん。
運動麻痺はなく感覚も良好。
コミュニケーションもそこそこ取れ指示理解は良好。歩行も独歩で短距離であれば可能なレベル。
「神経筋再教育?とか装具療法?とかの感じじゃないよね。えっと、逆に何すればいいんだろう…」、脳卒中と言えば「片麻痺患者」さんを想像してドキドキしていた私にとってはかえって難しく感じた。
運動麻痺が悪化している訳ではない。単関節レベルの動きは十分発揮できる。四肢の運動機能としては大きく変わっていない。
この頃の私の頭は、脳血管障害の主たる動作阻害要因は「運動麻痺」。
運動失調、高次脳機能障害、など言葉こそ知っていたが大きく歩行を阻害する要因にはなり得ないと思っていた。いや多少の影響は出るだろうがそんな介助が必要なほど…と思っていた。
「脳卒中になると運動麻痺が出現して歩行が障害される」ざっくり言うとこのレベルの理解だった。
ふらつく患者さんを前に、なんだろう…なぜこんなにふらつくのだろう?運動麻痺はないのに…。精神的なもの?もしかして廃用がすすんでる?もっと運動してもらった方がいいのかな?運動失調?体幹が弱い?正中軸がズレてる?など先輩たちが話してるのを見よう見まね当てはめて考えを巡らせていた。
回診に来た主治医が言った。
そのときハッとなった。
あ、そう言えば、国試でやった…あ、歩行障害ってそういうことか。
当然「水頭症」は習っていたし、特徴的な障害(歩行障害、認知症、尿失禁)も記憶していた。自慢ではないが私は優秀な学生だった。机上の「記憶ゲーム」は得意な方だった。
が、いざ臨床に出てそのような知識を活用する場に遭遇しても全然活用できていなかったのである。知識と臨床とが繋がっていないというか…。
その後すぐに治療が行われ水頭症が改善すると歩行のふらつきはなくなった。
そのとき、あ、こんな教科書通りのことが起こるんだ、と感じた記憶が強く残っている。
すげー!医学すげー!
自分が何かをしたわけでもないし、何かに貢献した訳でもまったくないが、ただただ習ってきた知識と臨床とが繋がったことに、なんというかよく分からない楽しさを感じた。
このように、学習した知識と実際の臨床場面での経験が繋がり「気付き」を得た時、私は楽しさを感じる。
とりあえず引き出しにしまっている知識が、その後は出し入れして使える知識に変わるというか、なんだかそんな感覚になる。
機能的な問題点を議論しているとき
これは理学療法士あるあるなのだが、理学療法士間では、立ち上がりや歩行といった動作を分析して機能的な問題点を議論してどちらが優勢か競うバトルが日常の中で行われる。
細かな動作観察、正常動作との比較分析、他動作との整合性、検査結果との照合など「推論バトル」とでも言うべき議論が行われる。
優れた理学療法士とは、このバトルが強い理学療法士を指す。日本若手理学療法士協会の会長がそう言っていた。
さて、この推論バトル、実態は激イタ勘違い理学療法士が自分の能力をアピールするために同僚や後輩にけしかけ不毛な時間となっていることがほとんどなのだが、私は正しいマインドを持って臨めばとても有意義な営みだと思っている。そう、何を隠そう私は激イタ勘違い理学療法士なのだ。
正しいマインドとは可能な限り科学的な推論であろうとするマインド、相手を攻撃するのではなく建設的に議論をしようとするマインドの二つである。
そしてそのようなマインドで行われる推論バトルが私は大好きで、そんなことをしている瞬間がとても楽しいのである。
もう少し詳しく言うと、ただ話しているだけじゃなく、自分の考えを言う機会が与えられ、かつ、言った考えが、周囲に理解・納得・共感・称賛されたときに最も楽しさを感じるのだ。
これは議論が深ければ深いほどいい。なぜならそれだけ深いところまで考えている自分を認めてもらえるからだ。
そう、自己満足と言われればそれまで。だが、それでいい。私は激イタ勘違い理学療法士なのだから。
先回りして準備していたことがばっちりハマったとき
患者さんを担当すると自身の持つ知識や過去の経験などから様々なことを予測する。
それは患者さんの病態やリハビリの進捗といったことにとどまらず、主治医の性格や一緒に担当する看護師の特徴、家族のクレーマー具合など多岐に渡る。
・古い家ってことは環境的な問題が多そうだな…
・もしかすると今回の手術部位ではない膝関節症がゆくゆくメインの訴えになりそうだな…
・主治医は自ら積極的に病状説明をするタイプではないな…
・担当看護師は家族にコンタクトを取るタイプではないな…
・家族はとにかく長い入院を希望してきそうだな…
・退院前カンファレンスのときケアマネはこういう情報を求めてきそうだな…
といった具合で様々な予測をする。
そうするとただただ日々のリハビリをしているだけでは、すんなり退院という訳にはいかない。必ずどこかでそれを阻む壁にぶちあたり1週間も2週間も退院が遅れる。
その結果、一緒に担当している自分まで「うまく退院させられなかった人」という評価を受けることになる。
実に理不尽だが私くらいになるとそんなことはもう慣れっこなのだ。
上記のような予測がたつと、前もってその壁を取り除きにかかる。
・退院前に安全・安楽な環境を提案する。
・主治医や看護師に根回しし今後問題となる部分に対して主治医からの病状説明してもらう。
・師長に家族のキャラを伝え長期入院を希望したときの心づもりをさせておく。
・ケアマネが気になるであろう動作や環境を評価してカンファレンスで説明・提案できるように準備する。
といった具合で、先回りして対策を打っておく。
そして案の定予想通りにことが進み、対策がばっちりとハマり、スムーズに退院の運びになったとき、それ見たことかワンダホーベイビー!ととても楽しくなる。
「俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」ではないが、「私が担当でなければここまでスムーズに退院に持っていけただろうか」と勝手な優越感に浸る。
何度でも言おう、私は激イタ勘違い理学療法士なのである。
まとめ
今回は理学療法士をしていて楽しいと思う瞬間についてまとめた。
「患者さんの笑顔が…」とか、「患者さんから感謝されて…」といった類の、黄色いお花畑にヒラヒラちょうちょが舞っていそうなおとぎ話はみじんも登場しなかった。残念ながらそこに「楽しさ」は感じない(「嬉しさ」はある)。
どうやら私は人がどうこうよりも、自分が認められたり、気付きを得た時、などに楽しさを感じるようである。
みなさんは仕事をしていてどんなときに「楽しさ」を感じますか?
コメント
コメント失礼します。
自分も症例検討や機能的な問題点を議論している時にすごく楽しいって感じます。
この仕事があっているなとも感じる瞬間です。
ただ自分の意見を押し付けないよう建設的な話し合いをしないといけないとはいつも注意していますが …
ありがとうございます!
共感していただき嬉しいです!