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新年なんで「自己研鑽」について考えてみる

若手向け
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皆さま、あけましておめでとうございます。

新年早々、痛ましい災害や事故があり、早く事態が収まることを願っております。

 

 

X(旧Twitter)を覗いていると、定期的に”自己研鑽はすべきかどうか?”というテーマで議論がされているように思う。
自己研鑽は療法士の義務なのか?はたまた意識高い療法士が勝手に行っている代物なのか?

「自己研鑽に時間をかけても給料は増えません!その時間を副業にあてたほうが〇〇稼げます!」

みたいなポストなんて何度見たことか・・・

 

という訳で、新年一発目のブログのテーマとして、この”自己研鑽”を取り上げ、過去に出されている意見の紹介や私自身の自己研鑽ついて考え方について述べていきたい。

ひとまず、今回のブログにおける自己研鑽については、”業務外に行われる自己学習や学術活動”という風に定義したいと思う。また、業務内にて行われる症例報告の準備について、業務外に行うことも自己研鑽として扱うことにする。

 

また、このブログにおいては、療法士としてこれからも今までと同じように働いていくという前提に立って書いているので、そのことをお忘れなく。

 

早速始めていこう

 

 

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論旨整理

Xを中心に各種SNSで上がっている自己研鑽についての考えであるが、大抵が以下の論旨に収まると考えている。

 

まずは自己研鑽を推奨している側の意見から紹介する。

業務外での自己研鑽を推奨している側の意見としては、医療は日進月歩であることから、常にアップデートしていないと対象者の利益に繋がらない!
医療者なんだから患者の利になることに取り組むべきだ!

以上のように対象者目線からの意見が多い印象

 

対して自己研鑽を行うことに消極的な側の意見について紹介する。

自己研鑽をしようがしまいが算定報酬は変わりなく、また給料に反映されるところも少ない!
それならば余暇に過ごすか、副業で別の収入を得る方が合理的だ!

このように、旨みの少ない自己研鑽に必要性を感じていない印象

 

さて、どちらの意見も一理あるし、どちらが正しいかどうかとは言いようがない。

たしかに、自己研鑽をした方が少なからずも対象者の利に繋がるとは思われる。

ただ、現在の本邦における療法士の診療報酬体系で考えると、診療報酬の対価は対象者に費やした時間によって払われるため、良くも悪くも時間をかけた分だけお金がもらえるという仕組みだ。

それに関しては、経験年数や学歴や立場は関係ない

そんな現状において、組織側が経営的観点からも貴重な対象者への時間を削ったり、お金を補助してまで、個人の研鑽をバックアップしようとも思わない。(口では自己研鑽が重要とは言うが・・・)

このようなバックグラウンドを加味すると、理想と現実の狭間で意見が分かれるのは致し方ないことだ。

 

では、これらを踏まえて、私の自己研鑽に関する意見を述べていこう。

そのまえに、今回のブログでは以下の項目を大前提とする。

①個人の自己研鑽は対象者の利に繋がる。つまり、多少なりとも臨床能力の向上に繋がる。

②療法士は対象者の利に繋がることを良しとする。

③自己研鑽そのものによる給与アップはない。(施設間誤差を無くすため)

④日本の人口は減少傾向で、高齢者についても少しずつ減少していく。

⑤療法士の人口について、ここ数年の間は増加していく。

⑥医療分野においても、AIやロボットなどのテクノロジーの参入が増える。

 

また言葉の定義として、病院や看護ステーションなどの事業所、老人保健施設や特別養護老人ホームなどの一般的に療法士が在籍している場所を、このブログ内では”施設”として統一する。

さて、以上を加味した上で療法士における”自己研鑽”について考えを述べていきたいのだが、始めに私の立場を表明しておこう。

 

私の立場は、「療法士は自己研鑽をすべき」である。

 

すべき!とはしたが、どちらかというと推奨の意味合いが強い。

それでは、その理由について少しずつ説明していく。

 

 

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お金をもらっているから自己研鑽をすべきなのか?

我々療法士は診療報酬という形で金銭的な報酬を受け取っている。

医療保険により自己負担額は3割以下に抑えられているとはいえ、顧客である対象者からお金を頂いているのだ。

また自己負担額以外については、医療保険により賄われており、その原資は我々が払っている医療保険料や税金となっている。そして、我々療法士は自己負担額と合わせて、20分で2000~3000円という安くはない金額を頂いている。

そんな額に見合うサービスを提供するためには、日々自己研鑽を行って自身のサービスを高める必要がある。よって、療法士は自己研鑽をすべきである。

 

 

といった意見で、自己研鑽が重要であるという意見をよく目にするが、私自身はこの意見が一番嫌いである

 

まず対象者からお金を頂いているから・・・に対して、我々のサービスに対して金銭的な報酬が発生するのは正しいが、それは我々に対してではなく施設に入る。そして、その施設から我々に対して給与という形で金銭的報酬が与えられる

上記の論拠でいうのであれば、金銭的な報酬を受け取っているのは対象者からではなく、施設からであるため、我々は対象者のためではなく、施設のために自己研鑽を行う必要がある

よって対象者からお金を頂いているから、療法士として自己研鑽すべきという理屈には当たらない。

 

いやいや、自己研鑽を行って対象者にいいサービスが提供できれば、それそのものが施設の利益になるのだから、施設のためにもやっぱり自己研鑽は行った方がいい!

たしかにこの理屈であれば、自己研鑽を行った方がよいだろうし、施設側からしてもデメリットはない。では、メリットはあるのか?
つまり、自己研鑽をして対象者にいいサービスが提供できれば施設の利益になるのか?

もし自己研鑽で対象者にいいサービスが提供できて施設の利益になるのであれば、自己研鑽ではなく、金銭的な報酬を与えて療法士の質の向上を促していく動きがもっと増えると考えるのが普通だろう。

 

では実際のところどうかというと、色々聞く話や実際の経験談からすると、その動きは少ない。というかほとんどない施設も多いのではないだろうか?
なんなら”自己研鑽はすべきか?”という話題がSNSに挙がるという事実そのものが施設側の本音を表しているのではないか。

それよりも、質は高くなくても、対象者とトラブルなく無難に仕事をこなして時間をかけてくれる人材の方が施設側としてはありがたいし、そこには金銭的な補助は必要ない。(むしろ個人の資質の問題なので、補助云々は関係ない)

 

要するに

施設は療法士の質の向上による施設側への利益の向上について期待していない。少なくとも、積極的に金銭を払って投資すべき事象とは思っていない。

あくまで私の私見にはなるが、まあ施設側の本音もこんなところだろう。

どちらにせよ、対象者にサービスを行って診療報酬を得ている段階で、プラスアルファの自己研鑽を施設のために行うということ自体が意味わからないことではあるが…

 

あと、1単位20分で〇〇円ももらってるんだから、サービスの質を上げるために自己研鑽すべき!みたいな意見があるが、なんならこれが一番嫌いである。

おそらく、その額が大きいという思いからの発言なのだろうが、国家資格の療法士の20分の介入は〇〇円であると国や政府によって決められているのだから、我々としてはそういうものなのだと認めるしかない。それが高いか低いかは単なる個人の感想でしかない。

それを軸に自己研鑽の必要性を訴えるのは、あまりにも非論理的すぎるし、それが正しいという前提であれば、新人の介入は妥当なのかって話になる。

 

また、仮に診療報酬が下がった場合、介入の質を落としてもいいということになるのだろうか? 絶対にそうはならないだろう。その時点で論理破綻だ。

 

とりあえず、診療報酬を軸にした自己研鑽の議論は不毛でしかないので直ちにやめた方が得策だ。

 

そもそも国家試験に合格して免許を所持している上で対象者に20分時間をかければ、特定の診療報酬が発生する。

つまり、その時点で診療報酬に対する対価としては成立している。

ただ、無理に時間だけ引き延ばしたり、世間話ばかりで診療報酬を得るといった点については、単なるモラルの問題なので、今回の議論からは外させてもらう。

 

 

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療法士の将来を考えて

以上から、診療報酬の対価として、対象者へのサービスの質の向上のために自己研鑽をすべきであるという点について、私が批判的である点はご理解いただけただろう。

ただ、間違ってほしくないのは対象者へのサービスの質の向上のために自己研鑽をするという行動自体は賞賛すべきものであり、否定するべきものではないという点だ

あくまで、報酬を根拠に自己研鑽を他者に押し付ける行為に対しての批判であって、自己研鑽を行っている人間に対して批判する気持ちは露ほどもないことを念押しておく。

 

では、なぜ療法士にとって自己研鑽が重要であると考えているのかについて述べていくが、まず価値について考えていきたい。

そもそも”価値”というものは何かという点だが、これは”他者に対していくらか利益を与えるもの”に他ならないと考えている。

 

この利益とは金銭的なもののみでなく、快を与えてくれるものや不快を減らしてくれるもの、また観て楽しめるものなど様々なものを指す

そして価値の高さは、その希少性与える利益の大きさで決まり、価値の高いものは、より大きい価値のものとトレードが可能となる。

端的に言うと、対価としてより大きい報酬が得られるということになる。

 

まあ当たり前の話ではあるが、この価値を高めることが、これからも療法士として働いていく予定の者にとって、今までよりも意識しておく必要があるのではないかと考えている。

 

では次に療法士としての価値について考えていきたいのだが、その前に我々療法士を取り巻く環境の将来像、つまりは日本の将来像について簡単に考察してみたい。

 

 

これからの日本と療法士

  • 日本の人口は減少傾向で、高齢者についても少しずつ減少していく。
  • 療法士の人口について、ここ数年の間は増加していく。
  • 医療分野においても、AIやロボットなどのテクノロジーの参入が増える。

医療分野は特にかもしれないが、基本的に仕事はパイの奪い合いであると考えている。

 

顧客である高齢者が減って、ライバルである療法士は増えているという前提であれば、単純に考えても、パイの奪い合いは熾烈になり、自身が奪える量の期待値も下がってくる。

後述するが、人口減少は税収の減収にも繋がることから、社会保険料はどんどん切り詰められていく。そんな状況で今までの様に時間単位での診療報酬体系が持続可能かどうかは甚だ疑問である。

という訳で私としては、単純な診療報酬の減額でなく、もっと抜本的な変更が加えられるのではないと考えている。それこそマルメのような包括化は一番現実的な展開だ。

以上はあくまで単なる私見だが、客観的に考えても、今までの様な単に時間をかければ報酬がもらえるようなシステムが未来永劫続くというのは考えない方がよいだろう。

 

話は少し変わるが、前提にも挙げた世界的なAIやロボットなどのテクノロジーの参入もほぼ確実に起こる未来だろう。

よく、これらのテクノロジーの進歩が我々の業態への脅威となりえるという言説を耳にするが、詳しい説明は割愛するが、私はそこまで脅威にはならないと考えている。

ただ、AIやロボットが我々の仕事を奪うことはないとしても、特にAIが我々の仕事をより正確に評価する時代にはなるかもしれない。

特に昨年のAIの進歩を目の当たりにし、かつ実際に触ってみた経験から、データ分析の進歩は思ったよりも早いと考えている。

このデータ分析によって、施設単位でのリハビリテーションの質を評価する流れが来た場合、今まで明らかにされていなかった施設ごと実力が明らかにされてしまう、そういった未来が来る可能性は高いのではないかと考えている。

 

国も膨れ上がる社会保険料を何とかすべくあの手この手を考えてくるだろう。とは言え、一律ガッツリ減額といった方向では様々な所への影響度が大きい。
となると、費用対効果の高いサービスに金を集中させる方向へ進めるのではないか考えるのは自然だ。

一昔前に、回復期病院おいて、実際に対象者に費やした単位数とFIM向上に相関がないといった報告から、FIM利得や実績指数なるものが構築されたように、AIによるデータ分析によってリハビリテーションの費用対効果をより多くの変数にて算出できるようになるかもしれない。
仮により多くの変数によって費用対効果を数値化されてしまった場合、計算式等はブラックボックスであるため、入院時のFIMの数値を少なく見積もっておくといった、こちら側の調整が難しくなり、今までの指標よりもよりリアルな指標となり得る。

もしそんな指標が誕生したら、施設自体のリハビリテーションの質が可視化されることになり、施設基準への反映や他施設との比較のツールとして用いやすくなるだろう
そうなると、決め手は個々の療法士やチームマネージャーの実力にかかっており、療法士の質への投資も活発化してくるかもしれない。

 

とまあこの未来については、私の希望を含めた予想ではあるが、無きにしも非ずといった感じで受け取って頂けると幸いである。

 

 

療法士としての価値を高めるために

さて、前述において療法士としての価値を高める必要性と予想される未来像について述べてきた。

では療法士としての価値について考えてみるが、そもそも療法士の強みってなんだろうか?

例えば医学的な知識に関して言えば、医師には到底及ばないし、看護師とも特定の分野以外については劣っているだろう。そもそもこれからの未来において、知識面についてはAIに遠く及ばないことから、「療法士なのでこういったことが詳しいです!」なんてのは何の価値にもならない。

ただ、後述するが身体の動きに関しては他の専門家と一線を画すと考えている。それも知識ではなく、そのような身体の動きに関して関わって来た”経験”は大きな強みだ。

ただ単なる療法士としての経験だけでは、生き残る上では心もとない。単なる経験だけなら、それこそライバルはごまんといる。

自身が療法士として生き残ることを考えた場合、他療法士とは良い意味で差別化された経験が求められる。
ただし、間違えてほしくないのは、「のべ10000名の患者を治療!」みたいな単なる数の多さ経験では差別化はされない。

私としては、対象者への介入を通して、いかに他者が知らない、真似しづらいようなノウハウを蓄積することが差別化された経験と考えている。

ゆえに、そういった差別化された経験を増やしていくかが療法士の価値を高めることに繋がるのだが、その差別化された経験を経験するためにはどうするか?そのキーとなるのが自己研鑽と考えている。

というわけで、前置きが大変長くなったが、今回のブログの本題である自己研鑽を薦める理由について考えたい。

 

 

自己研鑽を薦める理由

自己研鑽のデメリットについては冒頭で簡単に述べたが、金銭的な報酬が発生しないにもかかわらず、時間とお金をかけるのかどうかだが、私が考えるメリットについて経験則も踏まえ述べていく。

 

自己研鑽によるメリット

①自身の介入や発言に対して説得力がつく

②単なる経験が差別化された経験になる可能性が高まる

③療法士としての能力向上により、制度の変化に対して対応できる

④臨床が興味深くなる

では、それぞれについて簡単に説明する。

 

①自身の介入や発言に対して説得力がつく

対人間を相手にするサービスであるならば、その人の介入や発言に”説得力”があるかどうかは、専門家としての能力を測る上で重要なポイントであると考える。その説得力がどのようにして生まれるかどうかは、その介入や発言に対しての根拠や洞察の深さが鍵になり、それらを備えるためには一朝一夕では困難だ。

仮に口八丁手八丁で言いくるめられたとしても、仮初めの説得力でしかなく、ちょっとしたことですぐにボロが出てしまう。

 

例えば自身の好きなものについて説明を求められた場合、単に説明するだけでなく、それらの説明を基にした質問に対しても的確に返答し、やり取りを繰り返すことで、説明者の説得力が増し、その話題について知りたくなった時の相談相手となりえる。

これがただ好きだという事実のみだと、説得力は生まれない。すなわち、背景にある知識やそれに対する深い洞察が備わって始めて説得力が生まれるのだ。

今のは自分の好きなものについての話であったが、仕事においても同様である。

では説得力を生むための知識や深い洞察はどのようにして備えるのかというと、これは残念ながら通常業務には必須の項目ではないかもしれないので、自身で学んでいくしかない。つまりは自己研鑽するしか他ならない。

 

また、これは経験則になるが、説得力を持つ療法士は、対象者や多職種から信頼を得やすくなる。これは単に時間をかけるだけの経験を積んだ人間には至らない境地だ。

信頼を得やすいということは、様々な場面で相談されやすくなり、その相談に答えられるようになると、それがその組織内での実績となる。その実績は新たな信頼を得て、自身のキャリアを更に後押しすることとなる。

この様に、他者からの信頼を得た人間は、何かしらステップアップするチャンスに触れる期待値が高くなり、本業以外の場面における成長の可能性も高まる。

これは大変重要な項目なので、必ず頭に入れといてほしい。

なお、この状態までくると、明らかに”療法士としての価値”は高まっており、場合によっては療法士以外の分野においての価値も高まっているかもしれない。そうすれば、社会がどのように変化しようとも療法士としての職を失うことはないだろう。

これはあくまで自己研鑽がうまく花開いた場合の例であり、自己研鑽がベースにない人間では困難極まりない道であるとは考える。

まあ自己研鑽をしたからといって必ずしもこのようになれるかはわからないが、少しでも可能性が高まるのであれば、行わない理由はない。

 

②単なる経験が差別化された経験になる可能性が高まる

これは前述したものだが、差別化された経験を積むには自己研鑽が重要であると考えている

どういうことかというと、私は対象者への介入を通して、いかに他者が知らない、真似しづらいようなノウハウを蓄積することが差別化された経験と考えている。つまりは、参考書や論文には明記されていない、検索してもヒットしないものである。

ではこの差別化された経験を行うためにはどのようにすれば良いかだが、端的に言うと自己研鑽にて検索可能な知識やノウハウを得た上において、自身の臨床で新たな発見を繰り返していくのである。

 

自己研鑽をした状態で臨床を見ると、今まで気がつかなかった現象にラベリングができたり、意味付けができるようになる。そうすることによって、臨床の解像度に明暗ができ、臨床での新たな発見に繋がりやすくなる。

 

どういうことかというと、例えば立脚中期に立脚側と逆側に骨盤が傾く現象をトレンデレンブルグ徴候という。
これは学生レベルの超基礎的な知識だが、自己研鑽にてこのトレンデレンブルグ徴候について深く学習したとしよう。

そうすると、今まで単に歩き方が変だな~としか感じ取れなかった現象に対して、トレンデレンブルグ徴候という見方ができるようになる。
加えて、トレンデレンブルグ徴候の原因が中殿筋の筋力低下という知識をベースとして、中殿筋の筋力低下を疑えるようになる。ならこの方は中殿筋が弱いから歩き方が変なのではという予測が立てられる。

何を当たり前なことをと思われるかもしれないが、そう思えるのも読者の方々がトレンデレンブルグ徴候を知っているからに他ならない。つまりは自己研鑽において、もっとレベルの高い学びを行うと、それがより臨床における深い洞察に繋がっていくのだ。

ただ、これらはあくまで自己研鑽での知識やノウハウと実際の臨床場面を照合しているだけである。
より重要なのは、そんな中でも実は一般論には書かれていない重要なポイントがあったり、一般的に言われていることと違った現象を示す対象者もいるなど、実際の臨床場面において世の中の通説と異なる状況に遭遇するといった経験をすることだ。そういったところに、差別化された経験が潜んでいると私は考えている。

ただ、これらは単に臨床場面を経験しているだけで遭遇するのは困難である。

あくまで、知識やノウハウを背景にした上で臨床に臨むことによって得られるものであり、それらの背景が無い状態では見えているようで見えていると認識できない。ちょうど、トレンデレンブルグ徴候をただの変な歩き方と捉えてしまうように。

そしてこの経験から得られた発見は、次の臨床において新たな発見を生む。こうして雪だるま式に自身の経験値が上昇していくことから、私は自己研鑽は複利と一緒であると考えている。

ゆえに、できるだけ早い段階から自己研鑽を行って、この様な経験に多く遭遇することが望ましい。

若くてお金がないから副業等に走るものわからないでもないが、できれば若い段階から臨床場面において差別化された経験を積み重ねるためにも、自身への投資を積極的に行うことをオススメする

 

ちなみに、私自身も何点か、論文とかには無く、他の療法士の介入を見ても明らかに一般的ではないと確信を持っている差別化できる経験則を持っているが、それらも若手の頃に必死に行った自己研鑽をベースにした様々な経験を基に発見したものであり、仮に現行の医療制度が変革したとしても、療法士として私を通用させるものであろうと確信をしている。

まあ単なる過信かもしれないが、こういったものを持っていると療法士としての自信にも繋がるため、私としては経験則を踏まえて強く自己研鑽を薦めている。

 

(このブログ記事の急性期病院のメリットの図も似たような意味合いなので、興味があれば是非!!)

 

③療法士としての能力向上により、制度の変化に対して対応できる

これに関しては今まで言った通りでしかない。

どんなにテクノロジーが進もうが、人間が存在する限り病人は存在するし、病人が存在する限り障害は存在する。障害が存在するのであれば療法士のニーズは消えない。

であれば、療法士としての能力を向上させておけば、制度が変化しようとも、自身の必要性は消えないし、職を失うことはない。

というか私としては療法士の潜在的ニーズはどんどん増えていく可能性すら考えており、療法士としての能力を高めれば高めるほど、医療制度を超えた働き方も可能になるかもしれないと考えている。

 

文字数が増えてしまうため、詳しくは説明できないが、SNSやリモートワークなどオンラインでの活動が活発化しており、特に新型コロナによって爆発的に加速した。最近ではメタバースといった感じで、自身の肉体を超えた交流が可能となりつつある。

わざわざニューヨークに行かなくても自由の女神像が目の前にあるように感じることができるし、グランドキャニオンの上からの景色を眺めることも可能だ。

 

これらは、テクノロジーの進化による新たな境地だが、残念ながらどこまでリアルに近づいたとしても、それらはテクノロジーが生み出したコピーにしかならない。

となると、やはり本物を感じたいと思うのが人間の性であり、その本物を感じるためには自らの身体を動かす必要がある。そしてこの身体の本質はおそらく今後も変化しない。

この身体を動かすといった点において我々療法士は他の専門家よりも秀でた知見を用い合わせている。

今までは病気や障害にて動かしにくくなった身体を日常生活活動が行えるように回復させる手伝いをしていたが、これからは今ある身体をより良い状態に向上させるといった、トレーナー的な視点でのニーズが高まるのではないだろうかと考えている。

そうなった場合は、今までよりも身体に対しての理解を深めないといけないが、それができれば、ただのトレーナーとは一線画す存在になれるかもしれない。

そういった意味でも今のうちに自己研鑽をしておいて、療法士としての能力を向上させておけば、より様々な選択肢を選べる未来が来るかもしれない。

 

④臨床が興味深くなる

これは単純に私見にはなるが、なんでも知らないより知っている方が理解が深まるので興味深く感じられるだろう。

例えば釣りが趣味の人は魚だけでなく海や川についても詳しくなっており、車が趣味の人は、「こいつ整備士なんか?」って思うぐらい車の詳しい制御機構にも深い知識を持っているものもいる。

これらを学んだところで一円にもならないはずだが、じゃあなんで自身の趣味のことには詳しいのか?当たり前のようだが色々調べたのだろう。

ただ、これらは最初は好きだから調べ、理解が深まってまた好きになって、より調べようとしていったポジティブな循環のたまものだ。

自身の好きなものの場合は、好きから入ることになるが、とりあえず調べてみて理解が深まることによって興味深くなるってのもあり得る話だと思う。

 

よく療法士の仕事は金を稼ぐために行って、あとは趣味を楽しむといった考えの人も多いが、とはいえ現実的には趣味よりも仕事の時間の方が多くなる人がほとんどだ。

ならば、自身の人生において多く時間を割くことになる仕事を興味深く思えるようになると、それだけで気持ち的にも豊かになるのではないかと考える。

まあこれは人それぞれなので強要はしないが、そういう生き方もありではないかと提言しておく。

 

 

まとめ

さて、今回は自己研鑽についてダラダラ話してみた。

あまり説得力はない文で、かつかなりの長文になってしまったが、そこは事情があったのでご容赦頂きたい。

簡単にまとめると、普通に考えたら我々療法士の未来は明るくないが、決して暗闇ではない分、今のうちに他療法士と差を付けられるようにしておく必要がある。またテクノロジーが進歩することによって、身体へのニーズが高まると考えらえるので、療法士としての能力を高めることは、新たな可能性を生む基盤になるかもしれない。
それらのベースには自己研鑽が重要となるので、自己研鑽をしておきましょうよ!といった考えである。

 

私として一番推したいのは、世の中がいくらかわっても、人間活動をする身体は変わらないということであり、人間活動が存続する以上は我々のニーズは無くならないということだ。

また、我々の様なお金をもらいながら、他人様の身体を合法的に触ったり、動かしたり、動きの指導をしたりするってのは、一般人からしたら普通には体験できないことであるというのを自覚したほうがよい。我々の免許にはそんな力があるのだ。

そんな一般人にはできない体験から得られた経験や知見には、我々が思ってもいない価値が宿っているかもしれない

そう思うと、我々の普段の業務をただ漫然と経験しているだけなんてのは、宝が埋まっているかもしれない場所を素通りしていくようなものだ。

 

まあ現時点では宝になるか否かは判別付かないが、日々の経験を価値あるものにするためにも、自身への投資として自己研鑽を行っていくのは悪い話ではないと私は考えている。

 

このブログを読んでみて、自己研鑽が重要と考えてくれた人や、やっぱり金にならない自己研鑽は無駄だ!と考えたなど様々いるかもしれない。

ただ、個人的には自己研鑽は無駄だ!と考えてくれてる人が多い方が助かるっちゃ助かる

 

現時点でも、将来的に療法士として生き残れる自信はあるが、そのような考えの人が多い方が、競うライバルが少なくなって、生き残る確率が少しでも上がりそうだから。

 

 

それでは今回はこの辺で!

 

 

もしこの記事があなたの何かに引っかかったのであれば、以下の記事についても見てもらえると幸いです。

 

 

 

 

この記事を書いた人
りゅうぞう

生理学好きのギャンブラーPT
経済と投資について勉強中!!

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